マレーシア滞在、半年以上働かない日々、「すばらしい新世界」的日常に、芭蕉の俳句が味わい深く。

働かない毎日。仕事で苦しかったときは、それにどれほど憧れたことでしょう。
でもそれが半年以上となると、そんなに楽しくなくなってきます。
楽しいどころか、何の罰ゲームかと思ってしまいます。
私の基本はないものねだりなのだなと気づきます。
自覚はしていましたが、人生経験のゆえか、感性が鈍麻しているせいか、もはや心から滿足するということがないようです。
これはたいへん由々しき問題です。
旅と同じで、計画のときがいちばん楽しいのは人生も同じだなと思います。
でも今回は違いました。
マレーシア大使館に再入国の手続きを英文で申請して、何度もやりとりしてやっと昨年の年末に OKがでました。
苦痛そのものでした。
なかなか OK が出ないため、他のことに手がつけられません。
人生が停滞している感じは耐え難いことでした。
希望にあふれてとはいきませんでしたが、長期の滞在にいつになく心躍らせて、日航機を降りました。
しかしそこからは、以前見たマレーシアとは違っていました。
私は認識が甘かったのです。
おそらく世界中、隔離強化している国は同じなのです。
マレーシアはイージーアクセスで、やさしいだけの国ではありませんでした。
入国審査は、“国家”というものに直面し、その有無を言わせぬ存在がむき出しになる体験です。
まるで囚人になったような気分で、でも高額の隔離コストを払ったので、なぜかメルセデスで一人送り迎えされて、隔離されるホテルに入りました。


年末こんなにものごとに追われることがないのは、人生初めてかもしれません。
隔離期間は2週間の予定が、なぜか10日に急遽、短縮されました。
自由が得られそうな予感で、滞在への希望がわいてきます。
隔離期間で10日間完全にホテルの部屋に監禁された後、喜び勇んで娑婆に繰り出しました。
クリスマスイブ、たった1日だけ、予想以上に楽しく過ごしました。
その直後、活動宣言令が厳しくなって、少し外出できる以外は、ほとんど部屋にいるという生活が続いています。
人間はどういう状況にも適応できるものですね。
ノーレストラン、ノーイベント、ノープール、ノー海遊び、ノークラビング、ノー移動(10キロ以上だめって、どうかんがえてもすごいです)。
マレーシアの人たちはそんな国家のノーに慣れているせいか、誰も怒っている人を見かけません。
日本人もしょうがないということで妥協する民族性ですが、マレーシアの人たちはもっとそうです。
少なくとも肌感覚ではそうです。
イスラムの人たちに対するアメリカや日本などで喧伝されているイメージからすると、反乱が起きてもおかしくないと勝手に夢想していたのですが、そうではありません。
これは想像ですが、マレーシアの人たちは禁欲に慣れているのではないでしょうか?
むしろ高い公共心から、率先して外出禁止令を遵守しているのではないでしょうか。
わかりませんが、それでさっぱり効果がでないというのはいかがなものかと思います。
日本はもう緊急事態宣言いらないですよね。
ホテルに住んでいると、なにより食べ物が困ります。
キッチンがあれば、下手な料理でもするのですが、外食ばかりになると選択肢が限られて、たまりません。
たしかに GRAB フードでは、たくさんのテイクアウトの食事の選択肢があります。
1食でも持ってきくれます。
そのへんの屋台なら、それこそ300円未満で、おなかいっぱいになります。
でもちょっとオーダーを間違うと、とんでもない食べ物が出現することがままあります。
効きのいいスパイスで、お腹を壊してしまうこと度々です。
でもそういうのにも慣れてきます。

つくづく思うのは、自由を制限される社会の状態というのをわれわれは学習させられているのか?ということです。
われわれが習った日本の自由と平等、民主主義という社会原理は、それがどんなに軽薄であろうとも、日本ではまだかろうじて稼働していることに、心から安堵します。
ここからは夢想ですが、G7の国々はやがてオルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」のような状態になっていくのではないでしょうか?
Apple の電気自動車の製造委託をめぐって、その対象メーカーとして韓国の KIA がよろこんでいましたが、日本の自動車メーカーにも打診があるという報道がここ数日出ています。
私が働かずマレーシアに滞在している状態というのは、ちょうどベーシックインカムにおける生活様式と同じです。
最初はすばらしいと感じられた生活も、だんだん飽きてきます。
苦痛ではないという状態が続きます。
肉体的にも、また責任を追わないという意味でのストレスもありません。
すごく楽で、ビーチサイドで寝転んで本を読んだりしていればいいのです。
でも、何十年も追いまくられた生活が身体記憶にはあります。
その記憶が、不安をよびさまします。
こんなことでいいのだろうか?このままでいいのだろうか?と。
でも事前に、それでいいということで始めた生活です。
飽きたといっても、もう勤めることは明確にしたくありません。
株主や上司に精神的に支配されるなどもってのほかです。
そんな分裂した気分のなかで、私の心に刺さったのは松尾芭蕉の「おくのほそ道」でした。
繊細で優雅な(芭蕉が見たのは応仁の乱の後の執筆なので荒れ果てた風土だったかもしれません。でも私には伊豆あたりの風景が浮かびます)日本の風景を切り取り、すばらしい美の幻視と宇宙的空間認識、死に向かう人生の味わいを短い言葉に込めた作品は、あらためてすごいとしか言いようがありません。
人生における失望を受け入れ、想像力によって、見ているものを変えてしまう力が、芭蕉の俳句にはあります。
何も味わえない旅にまさにふさわしいとしか言いようがありません。

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